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いては行爲の範圍(意志及び欲求の領域にして感官上及び道德上の滿足を含めるもの)と知識の範圍(即ち槪念によりて働くもの)と觀美の範圍との三者が明らかに區別せられ美は眞及び善とは別異なるものとせられたり。

かくの如くカントは觀美的判定は一面に於いて感情なると共に他面に於いて判定なりと說きたる點に於いて其の審美說はライブニッツ‐ヺルフ學派の知力說(即ち觀美心を知識作用と同一視したるもの)にも同じからず又英國の學者等が唱逍せる經驗說即ち美感を感官上の快味と同一視したる說)にも同じからず、彼れの審美說が此等二派の所說に對して取りたる位置は恰も彼れの知識論が唯理說と經驗說との中間を行かむとしたるが如きものなりき。

《獨在美と依他美。》〔四五〕右述ぶる如くカントは美學上純なる形式說を唱へむとしたれども亦流石に內容に關係したる美を全く捨つること能はずして終に獨在美freie Schönheit)と依他美anhängende Schönheit)とを區別し、後者は事物が其の槪念(即ち其の物の當さに在るべき樣)を現はしたることに懸かれるものなりと云ひ而して家屋宮殿等の美を以て後者に屬するものとしたり。而かも彼れは尙ほ其の形式說を救はむと