コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/609

提供:Wikisource
このページは校正済みです

利あるもの(即ち外在的目的に適へるもの)とも異なり、盖し吾人が一物を美と認むるは其の物が其れ以外の或事柄に役立つの關係を思ひ浮かぶることなくして吾人に快感を與ふるものなればなり。觀美の快感は一切利益の感を離れたるものなり。感官上の快味と善とは共に事物の實存在に懸かれるものなれど、美は其の如き意味にて存在物に繫がれたるものにあらず、是を以てカントは觀美的狀態を說いて一切の目的及び利益の觀念より離れたるものなりと云へり。

されば美は一物が吾人をして其の目的を思ひ浮かべしむることなくして而かも目的に適へることに在りと云ふを得べし。例へば、吾人が一輪の花を見て之れを美しとするは其の花が何等かの目的の爲めに役立つといふことを思ひ浮かぶるが爲めに非ずして唯だ其の花が其の形式に於いて吾人の想像力と悟性とを相和して働かしむる目的に適へるが故なり。是に於いてカントは美に定義を與へて曰はく、唯だ其の形式(即ち槪念の媒介によらず目的の想念を思ひ浮かぶることなくして目的に適へること)のみによりて利益の觀念に結ばれざる快感を遍通的に又必然的に吾人に與ふるもの是れ即ち美なるものなりと。斯くしてカントに於