コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/598

提供:Wikisource
このページは校正済みです

る會合なり。純潔なる德行以外に何等かの方便を用ゐて神を拜し其の心を得むとするが如きは眞に彼れを拜する道に非ず、是れ皆迷信に墮落すべきものなり。敎會に於ける種々の敎理及び其の歷史的信仰の合理的意義は上に述べしが如くなれども其の合理的意義は必ずしも常に純粹に認められず、却つて一般人民に於ける宗敎の進步は能く一時に其の如き純粹なる合理的意義を認むるに至らず、敎會の歷史は寧ろ過去史上の一人物を置き之れを本尊として崇拜することと理想を置いて其れを追究し行くこととが相爭うて漸次に前者より移りて後者に進み行く歷程を示すものなり。歷史的信仰も人民の知識の程度に從うては有用なるものなれども其の窮極の目的は終に純粹なる合理的信仰に達するに在り、敎會に於ける基督敎の目的はた合理的宗敎に到達せむとするに外ならず。かくの如くカントが合理的宗敎を以て宗敎的歷史の窮極の意味となし又宗敎の內容を解するに專ら道德主義を以てしたることは彼れが當時の啓蒙的思潮の產物たる方面を示すものと云ひて可なるべく、又其等の點に於いて彼れはデイスト風なりきといふも不可なかるべし。