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德論は遂に宗敎論に進入することとなれり。彼れに從へば、宗敎は道德の上に立せらるゝものにして道德が宗敎の上に立せらるゝにあらず、換言すれば、吾人は先づ宗敎上の信念を立してこゝに始めて其の基礎の上に道德を立し得るに非ず、却つて先づ道德を立てゝ其の基礎の上に宗敎上の信念を立し得るなり。彼れ以爲へらく、宗敎は其の事柄(內容)に於いて道德と異なれるものにあらず、宗敎上吾人の爲すべきものとせらるゝ事柄は道德上吾人の爲すべきものとせらるゝことと別なるものにあらず、約言すれば、道德を行ふといふこと是れ取りも直さず宗敎の內容なり。二者の異なる所は要するに唯だ其の形式に在り、詳しく云へば、義務を唯だ理性の命令として守るべきものとするは道德にして、同じき義務を神の命令と見るが即ち宗敎なり。而して斯く道德を唯だ理性の法則と見る外に更に神の與へたる法律と見ることが吾人の德行を進むる上に於いて一大助力となるなりと。之れを要するに、カントに從へば、宗敎は畢竟道德を助くるが爲めに在るものと云ひても可なるべく、其の窮極的意義は道德の外に在らざるなり。即ち彼れの知識論が道德論に注ぎ入るが如く彼れの宗敎論は其の道德論より出でたるものと云