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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/595

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かるものなるに自然界の出來事は必ずしも道德界に於ける價値に從うて決定せらるといふことを得ず、例せば道德上より見て最も尊き者といふべき善人が自然界に於ける出來事の爲めに非常なる苦痛に呻吟することあり。此の故に自然界と道德界とを互に獨立のものと考へては吾人は福の必ず德に伴ふべき所以を解すること能はず、されば福の必ず德に伴ひて吾人の道德上の一大信念なる完滿なる善きものてふことの迷夢に屬せざらむには道德界と自然界とを共に支配し後者に於ける出來事を導きて前者に於ける要求に合せしむる者の存在することを必要とす、即ち神の存在するあり其の攝理に從うて善人は終に福せられ惡人は遂に禍を蒙るといふことが又道德上の要求として承認せられざるべからずと。斯くしてカントは感性對理性の二元論に出立し而して兩者の終に一致することを要すといふ旨意によりて未來の存在を說き又同じく道德界對自然界の二元論の上よりして神の存在を認むるに至れるなり。

《道德と宗敎との關係。》〔三八〕カントはかくの如く知的理性の上よりしては證明し得ざるものとなしたる自由、未來及び神の三者をば行的理性の要求として打ち立て、而して其の道