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ば、吾人の知識の對境に於いては凡べての事物は機械的必然の關係より成り、道德の要求としては自由を置きて言ふことを得。斯くの如く吾人の知識を現象界に限り而して之れと眞實體界とを相分かつ所よりして上に云へる如き理性の矛盾も却つて能く之れを證明し得べき道の開かるゝ望あるなり。然らば如何にして吾人の自然界を知る知識以外に道德の要求を說き且つ其の要求として眞實體界に關する立言を爲すことを得るかといふこと是れ即ちカントが後に著はしたる『實踐的理性批判』の問題となるものなり。而してかく自由と必然との反對を融解せしめ得るが如く又能く宇宙に於いて絕對に必然なる存在者の在りといひ無しといふ矛盾をも去ることを得。但しカントは吾人が智識の範圍內に於いては其の如き絕對者の存在を立證すること能はずと見たり。是れ彼れが次ぎに純理哲學的神學を批評せる旨意に於いて詳かなり。

《純理哲學上の神の存在の論理の無効なる所以。》〔二八〕カントは從來神學者の用ゐ來たれる神の存在の證據論を以て一切其の目的を達せざるものと見たり、其の證據論の一なる實體學的論證は畢竟ずるに吾人の槪念より直ちに實在を證せむとするものにして此の點に於いて其の論證