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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/573

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は倒れざるべからず。其の論證に曰はく、神てふ槪念は必然に其の存在するといふことを含む何となれば神は最も實有最も完全なるものなればなりと。然れども存在といふことは槪念の內容の一部分を成すものにあらず、換言すれば、完全の相の一部分を形づくるものに非ず、即ち存在は一槪念の內容を成す性質として其れに就いて言ひ現はさるべきものに非ず。故に其の槪念を分析すとも其の中より存在といふことを取り出だすこと能はざるなり。譬へば、百圓の金子は其れが唯だ吾人の思に在りとも或は實物として存在すとも百圓は即ち百圓にして百金といふ槪念の內容に少しも異なる所なし、存在は唯だ其の內容に附加したる見方なり、即ち存在すと云ふは綜合的判定なり、故に其の內容を如何に分析すとも其の中より存在といふことを取り出だし得ざるなり。

次ぎに神學者の慣用し來たれる世界論に基づける論證は因果の關係を根據とせり。其の說に曰はく、此の世界は其の存在する原因を有せざるべからず、而して其の原因是れ即ち神なりと。されど此の論證は唯だ吾人の經驗の範圍に於いてのみ、即ち相待的にのみ用ゐ得べき槪念を絕對的に用ゐたる點に於いて誤れり。因