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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/57

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至るべしと。是れシャロンが懷疑說を用ゐて宗敎の實行に利せむとせるなり。されど彼れはまた以爲へらく、吾人は全く眞理を所持すること能はざれとも其を求むることを得。吾人は眞理を求むるが爲めに生まれたるものにして眞理の探求是れ即ち吾人の生活を價値あらしむる所以のものなりと。

葡萄牙人サンチェス(Sanchez 一千六百三十二年に死す)に於いて吾人は中世紀哲學の終はりに出でたる唯名論風の立塲よりせる懷疑說を見る。彼れ以爲へらく、微小なる人間が如何にして限りなく大なる宇宙を知り究むるを得むや。吾人の經驗は唯だ事物の外面に觸るゝのみにして到底其の內部の本性を知ること能はず。吾人の眞に知り得べきは吾人自らの爲し得ることのみ、唯だ實行してしかじかのことによりかくの事を爲し得と知るのみと。

かくの如く懷疑說は究理的考察の眞理に到達し得るを疑ひたる結果、多く隱家かくれがを實務上の事に求めたり。即ち或は通俗に謂ふ世間の道德を以て吾人の則るべき唯一の標準となし、或は宗敎上の信仰を以て吾人人間の依憑すべき基礎となして只管實際を重んずる傾向に出でたりしが、又しかすると共に空論を排斥し事實を