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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/552

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立つとせばこゝに說明を要するは如何にして彼れが此れに用ゐらるゝかと云ふことなり。槪念と直觀とは全く其の趣を異にして恰も(カントの說く所に從へば)見知らぬ他人の如く其の間に何等の關係あり又何等の共通的基本あるかを認め難きものなるに奈何にして能く前者が後者に宛てはめらるゝぞ。カントは此の問に答へて各範疇と直觀との媒介を爲す圖式Schema)あり而して之れによりて能く前者が後者に宛てはめ用ゐらると云ふ。是れ即ち彼れの謂はゆる範疇圖式の論にして純理性批判論の中其の最も苦心せる所又最も難解の所たるなり。彼れ說いて曰はく、感性と悟性との中間に位するものとも見らるべき想像力(Einbildungskraft)が謂ふところ槪念を直覺に媒する圖式を與ふ、而して此の圖式は時間的直覺の上よりして得らるゝものなりと。盖し直觀の形式の中にてもカントが內官の形式と名づけたる時間は是れ一切の經驗の直觀的形式たるものにして何等の事物と雖も時間に於いて經驗せられざるは無く隨うて槪念を用ゐる時に於いても最もこれに親密なるべきは此の時間の形式なるべければなり。一言に云へば、時間上の或關係に從うて(或はそれを便りとして、記號として)悟性の槪念が感官的直