コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/491

提供:Wikisource
このページは校正済みです

の了解の甚だしく狹隘なる所あるを見る。

其の他以上の學者等と同部類に屬する者にはアブト(Abbt 一七三八―一七六六)エーベルハルド(Eberhard 一七三八―一八〇八)フェーデル(Feder 一七四〇―一八二一)エンゲル(Engel 一七四一―一八〇二)ガルフェ(Garve 一七四二―一七八九)プラットネル(Platner 一七四四―一八一〇)マイネルス(Meiners 一七四七―一八一〇)等あり。サンスーシーの哲學者(フリードリヒ大王)は當時の思想界に於いて一の特殊なる位地を占めたる者なり。彼れはヺルフ學派とロック及びヺルテールの思想とベールの懷疑說との影響を相混じて受け、其の道德思想に於いてはエピクーロス學派風の快樂說とストア學派風の堅固なる義務的道德主義との兩面を有したりき。但し彼れが軍人としての精神が彼れをして其の心を義務的觀念の重きを說くことに傾かしめたるなり。

《知識論者ラムベルト、心理學者テーテンス等。》〔八〕當時知識論上の問題に於いて獨立に硏究の地を開き後にカントの組織したる知識論の少なくとも一方面と頗る相類似せる思想を唱へ出で且つカントに重んぜられたる者はラムベルト(Lambert 一七二八―一七七七)なり。彼れはロッ