Page:Onishihakushizenshu04.djvu/489

提供:Wikisource
このページは校正済みです

らず、吾人の進步の段階に適するものと然らざるものとあり、昔者猶太人の神に於けるや唯だ之れを國民の守護神と視るに止まりしが之れを以て世界の獨一神とすることはペルシア人によりて始めて得たる思想なり、其の後舊約書に次ぎて更に之れに優りたる第二の敎科書即ち新約書の與へらるゝに至る。基督出でて始めて明らかに靈魂の不滅を說き又來世に於いて現世に於ける吾人の善惡業に對する報酬を得ることを敎へたり。されど是れ亦吾人を德に進むる一の敎育法に外ならずして吾人の達すべき最高の段階はこゝにあらず、其の最高の段階に於いては吾人は德を行ふこと其れ自身の爲めに行ふに至らざるべからず。吾人は漸次此の完全なる段階に近づきつゝある者にして此の發達の目的なる第三時期は是れ即ち合理的基督敎の成り上がる時代なり、是に至りては今までの如く種々の敎育上の方便として譬喩等を用ゐて敎ふるを要せずして合理的意義其のまゝと道德とを直ちに了解し實行することを得るなり。

レッシング又以爲へらく、個人は各〻人類が發達して到れる段階を經過するものなりと。彼れは此の思想に基づきて個人は唯だ一度其の生を保つに止まらず幾た