Page:Onishihakushizenshu04.djvu/488

提供:Wikisource
このページは校正済みです

て寧ろ彼れに於いて保たるゝもの、又各個物は皆神の圓滿なる相の分かれたるものにして、云はば各〻制限せられたる神力なり、而して各個物は其の制限せられたる相に於いて一種の相離れたる獨立の存在を成す。一切のもの皆活力あるものなれど其の活動の程度は大に相異なり凡べて段階を追うて發達し行くなり。

レッシングが宗敎上の思想に於いて合理的宗敎を以て理想とする所は一般デイスト等の說ける所と相同じ、されど彼れはデイスト等に優りて歷史的發達の何たるかを解し又其の之れを解するやヒュームの解釋とは其の趣を異にしたりき。以爲へらく、合理的宗敎は最後に來たるべきものにして此の最後なる極致に達せむが爲めに種々の宗敎は行はるゝなりと。蓋し此等諸宗敎は神が由りて人間を敎育する方法にして之れを以て單に揑造せられ又は詐僞に生じたるものと見るべきにあらず、即ち吾人が小兒を敎ふるや種々の方便を以て其が知識を開發することを要する如く神は人類の初めより今に至るまで天啓によりて吾人を敎育したるなり、天啓は決して無用なるものにはあらずして寧ろ永遠に行はるゝ人類の敎育法なりといふべし。凡べての事は決して一時に吾人に敎へらるべきものにあ