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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/456

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目せしむるに至るが故なり。人は元來其の災禍に遇ふと又其の無知なるとの故を以て自然に神々の存在を信ずるに至らむも其の信仰を組織立てゝ一の敎旨となしたるは是れ皆僧侶の所爲に外ならず、而して其の信仰は狂熱と詐僞とによりて裝飾せられ、世人の孱弱なる信じ易き心によりて更に增進せしめられ、習慣はそを敬ふべきものとし、壓制はそを堅固にして之れを用ゐて愚民を制御するなり。姑らく愚民の爲めに迷妄を說くといふべき理由なし、之れを說くは恰も人に毒を服せしめ其の勢力を殺減して而して之れをして亂暴を行はざらしめむと云ふが如し。須らく世に唱ふべきは不信神の福音なり、是れ最も世を救ふ所以の敎なりと。

《『システーム、ド、ラ、ナテュールの世界觀、人間觀、道德觀、宗敎觀。》〔三〇〕自然界は一の自ら活動する全體にして凡べての物は止むことなき運動の狀態に於いて在り、凡べての物は或は因となり或は果となり相連續して絕ゆることなし、秩序と云ひ若しくは調和といふが如きは是れ自然界其の物に存在するものに非ずして唯だ吾人の心の思ひに在るものなり、存在し居るものは一個物に於いても又世界全體に於いても唯だ其の存在を維持するといふことあるのみ、