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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/444

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Machine" に於いては更に其の步を進めて其の唯物論を明瞭に言ひ現はしき。是の故に彼れを以て佛蘭西に於ける正當なる意味にていふ唯物論の開祖と稱する人もあるなり。彼れはデカルト學派の物理說即ち機械的說明を全く人間に應用して一切の心作用を物質の活動なりと見たり。以爲へらく、物質が感覺作用を爲すといふことの眞なるは何處を見るも物體を離れたる心現象なく、また身體の組織の異なるに從ひて心作用も異なるによりても明らかに證せらるゝことを得べし。一切の思想は悉く物質上の變化に外ならず、吾人の腦裡に多くの思想の宿り得ることより見れば其等の思想の各〻が占領する塲所は極めて狹小なるものと云はざるべからず。吾人の精神の高尙なることは非物質といふ無意義の言語に存在せずして其の思想力の明瞭なること及び其の及ぶ範圍の廣きことに存在す、物質其の物の性に廣袤といふことが具はり居るが如くまた運動といふ作用も具はり居るものにして而して運動する物質がまた感覺といふ作用を具へ居ると見るべきなり。

《人間は下等動物、植物と同じく物質的機械に外ならず。》〔二四〕デカルトは下等動物を見て一の機械に外ならずと說きたれども其の