Page:Onishihakushizenshu04.djvu/443

提供:Wikisource
このページは校正済みです

Naturelle de l'Âme 一七四五年出版)に於いて發表するや彼れはそれが爲めに其の職を失ひ其の書は議會の命によりて燒かれたり。かくて彼れは佛蘭西を去りて和蘭に行きしが、又次いで其の著はしたる『人間は一の機械なり』("L'Homme Machine")と題する書の爲めに其處にても囂々たる物議を惹き起こして安居することを得ざりしかばフリードリヒ大王の許に至りて其の厚遇を受け、其處にて一千七百五十一年に卒然歿せり。其の致死の原因は確かには知られざれども或は毒殺の疑ひありともいふ。ラ、メトリーは其の性頗る勇敢なると共に又傲岸なりき。

ラ、メトリー曾て熱病を患へて血液循環の急激になり來たることが其の思想の出沒に著大なる影響を及ぼすことを實驗し吾人の心作用は生理上の作用を以て說明し得べきものなることに考へ付きしが此の思想を開發して始めて彼れの唯物論上の意見を發表したるものは其の著『精神の自然史』なり。彼れが其の後(一千七百四十八年、即ちアンシクロペディーの初刊に先きだつこと四年、コンディヤックが『感覺論』の著述に先きだつこと六年、エルヹシユスの『ド、レスプリー』に先きだつこと十年、ロビネーの『ド、ラ、ナチュール』に先きだつこと十三年に出版したる "L'Homme