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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/426

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を强く感ずるといふこと以外に特別に注意といふ能力の具はり居るにはあらずと。かくの如く說き來たりてコンディヤックは終に吾人の凡べての觀念及び凡べての心作用の淵源を唯だ感覺を感ずといふ一作用にのみ歸せしめ了せり。一切の觀念は感覺か將た感覺の變形したるもの(sensations transformécs)なり、故に思考する是れ畢竟感覺するなり(penser est sentir)。

《快苦善惡とは何ぞ。》〔一二〕感覺は或は快きものとして或は快からぬものとして感ぜらる、故に快不快の感は決して感覺と別なるものに非ず。而して快樂苦痛の感是れ吾人の動作を決定する所以のものにして、注意といふこと是れ亦快樂苦痛によりて動かさるゝものなり。吾人の心は快なるものに住せむとするものにして聊かも興味を感ぜざるものは影の如く吾人の心より消失す。吾人が曾て快しと感じたるものを再び想ひ起こす、是れ欲求の生ずる所以なり、欲求を本として愛憎、希望、恐怖等一切の情緖を生じ、終に意志の作用をも生じ來たる。善しと云ひ美はしと名づくるものは詮じ來たれば凡べて吾人に快樂を與ふる事物の性質を指していふに外ならず。