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イスト風の宗敎的思想が如何なる變遷を經たるかといふこと是れ即ち佛蘭西に於ける啓蒙時代の歷史の一要部分を成すものなり。ニュートン及びデイスト風の世界觀に從へば、天地萬物に意匠の現はれ居ることを認め而して之れを根據として造化主の存在を證することを得べしと考へたり。然れども自然科學の機械的說明の益〻進むと共に世界の構造は全く機械的にのみ說明し得らるゝものとする思想に向かひて進めり。ニュートンは神が時に外より其の力を添へて宇宙に起こる不親則なる運動を改むることを要するが如く考へたりしが、かくては此の世界は完全なる機械といふことを得ずして是れ取りも直さず神の造れる機械の拙なることを示すに異ならず、而して若し其れに拙なる所なしとせば世界は全く機械的のものとして特に外より神の手を假る必要なきものとならざるべからず。

且つ自然科學の機械的說明より云へば世界をばいづこまでも全く機械的に說明せむとすると同時に其の機械的作用によりて起こる事柄は必ずしも完美なるものにあらずといふことを看過すること能はず。吾人の住する世界には幾多の炎害あり不調和の行はるゝありて此の點より云へばライブニッツ及びシャフツベ