コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/386

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ち功利說の根據にして此の點に於いてヒュームは明瞭に功利說を唱へ出だせるものと云ひて不可なく、且つまた各個人の利益と云ひ或は幸福と云ひ若しくはおほらかに爲めになるといふことの何たるかを究むれば畢竟快樂を享受するといふことに外ならずとせる點に於いて功利說の立場は彼れによりて大に明瞭になれりといふを得べし(先きに力ムバーランドが善きもの又は爲めになるものと云へる觀念には啻だ快樂といふ意味にての幸福を含めるのみならず完全といふことをも含み、又後にシャフツベリーの云へる所も純粹に快樂といふ意味に用ゐられたるにはあらず)。功利說の立場よりヒュームが說明に最も苦心せるは正義といふ觀念なり、されど彼れはこれ亦社會に於いて功利を根據として作りなされたる道德的觀念に外ならずと信じたり。以爲へらく、時を異にし處を異にするに從ひて是非善惡の判定も異に習慣も異なれども其の根據を洗うて云へば凡べて功利に基づかざるはなく、唯だ其の事情を異にするに從ひて功利を來たすものの異なる所より道德上是非さるゝこともおのづから異なるのみ、例へば同一なる重力の法に從ひてライン河は北に流れローン河は南に流るゝが如し。