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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/382

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ものにあらざることに著眼し來たれり。以爲へらく、吾人の最も嫌惡する不義理、邪淫若しくは殺人罪の如きものも吾人が事實上確實に認め得る限りに於いては必ずしも一般の不幸を來たすと斷言すること能はざるのみならず、時には却つて幸福を來たすことの多き塲合も無しとはいふべからざるが如しと。是に至りて良心の直接に指し示す事柄と一般の幸福を根據として行ふべきものと見る事柄とは相分かるゝものとなれり。さきに一般希臘の道義學者等に於いては理性と名づくる唯だ一つの統御者のみ說かれたりしが近世に至りては社會と個人との對峙が明らかに自覺さるゝこととなれると共に倫理學上の根本思想に著大なる變化を生じ來たりて二つの支配者即ち自己の福利及び社會一般の福利といふ二標準が相別かたるゝに至れり、而かも英國の倫理學者等に於いてバトラーに至るまでは其の對峙は存在しながら未だ際立てゝ云ひ現はされざりしが彼れに至りては最も明瞭に言ひ現はされ、また一般社會を利するといふことと良心の道德上の指示に從ふと云ふこととは彼れに至りて相別かたるゝこととなれり。後に益〻盛んならむとする直覺說と功利說との論爭は已にこゝに胚胎せりといふ可きなり。