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故に實際上吾人の行爲を統御する上より云へば、確實なる命令は宜しく比較的に確實ならざる命令の上に立つべく而して其の反對の確實なる證據の與へられざる限りは明瞭なる良心の命令に從ふことが決して吾人の眞正の利益を害ふものにあらざることを信じて不可なく、而してかゝる證據の與へられ得ざることは已に上に云へるが如し。
バトラーが吾人の良心を論ずるや一千七百二十六年に出版せる其の說敎集("Sermons")に於いてはなほ其の指示と博愛との間に明瞭なる區別を爲さずして良心の指示せる所は要するに社會一般の爲めになることに在るが如くに說きたり、即ち此の點に於いて彼れは尙ほシャフツベリー等の所說に同意したるなり。されど彼れは良心を說きて其が吾人の義務として指示する所は道理に合ひ居るものなりとは云へるものからクラークの說けるが如くに之れを若干の道德上の窮極的原理に歸せしむることを力めずして專ら吾人が實際(言はば常識に於いて)道德上の義務として認め居ることを其のまゝに發見せむと力め、而して其の結果として漸々各個人が實際良心の指示として思ひ浮かぶることの必ずしも博愛と同一なる