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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/383

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《ヒュームの功利說、ヒューム對シャフツベリー。》〔七〕シャフツベリー先づ唱へてハッチソンの更に開發したる意見に從へば、吾人は道德官によりて直ちに我がもろの感情及び動機を嘉賞し或は排斥し而して道德官の褒貶する所は主として吾人の行爲を起こす種々の情緖其のものにして行爲の結果に非ずとなす。此の點に於いてヒュームは異なる說を唱へたり。彼れ以爲へらく、吾人の嘉みする所はもと吾人の行爲の有利なる結果なり、吾人が博愛の行爲を嘉みするは其の行爲が利福を來たすがゆゑなりと。尙ほ曰はく、吾人の嘉みするところのものは唯だ博愛のみにあらず、正直と云ひ、忠義と云ひ、道德上みな吾人の嘉賞する所にして皆博愛と相列ぶべきものなり、而して吾人が此等を嘉みせざるを得ざる理由は此等が凡べて其等の德を有するもの自身或は他の者に快樂を來たすが故なり。一言にして云へば、吾人が德行を嘉みする理由(即ちシャフツベリーの謂はゆる道德官の基づく所)は其の行が何人かに快樂を來たすが故なり。吾人が善しとして嘉みし又は惡しとして斥くる理由は究竟すれば快感を與へ或は不快感を與ふといふことに歸せざるべからず、快樂をも苦痛をも與ふることなき事物に善惡の區別の存在すべくもあらず、之れを譬ふれば恰も