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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/380

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こに謂ふところの良心は吾人が專ら他人に對して盡くすべきもろの義務を示すもの、また謂はゆる自愛心は各自の眞實の利益を計るものにして唯だ一時の感情或は欲望に從ひ行くの謂ひに非ざるを以て之れを合理的自愛心reasonable self-love)ともいふ。バトラーの意は決して自愛心を以て良心の下に隸屬すべきものと見たるにあらず、彼れは却つて吾人が感情に燃やされずして靜坐默考する時には(when we sit down in a cool hour,)一行爲が自己の幸福を來たすか又は少なくとも之れに反せざることを認めずしては其の行爲を爲すべき所以を解すること能はずといへり、一言に云へば、彼れは良心よりも寧ろ自愛心を以て基本的のものと見たるなり。故に若し良心の示す所と自愛心の示す所とが相背戾することあらば吾人は自愛心の示す所に反きても良心の指揮に從ふべき理由なきなり。されど良心の示す所が實に吾人の眞正の利益に反することあるかに就きては吾人は決して其の如きことあるを斷言し得べからず。盖し利己的計算は甚だ正確ならざるものにして吾人が一見して我が利益なりと思ふことが果たして眞に吾人の利益となるかは斷言し難し。之れと異なりて良心の命令は明瞭に且つ確實なるものなり、