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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/370

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世界の一局部をのみ見ればこそ不調和もあれ其の全體に眼を放てば善美ならざるものなしと觀じ、彼れは殆んど恍惚として此の宇宙の美に對し之れを迎ふるに宗敎的感情を以てせり。彼れは同じく目的觀の立塲より天地萬物を視たれども其の著眼の點に於いては當時思想界に流布したりし吾人人類の利益の爲めに萬物の造られたるが如くに思ふ卑近なる目的說(而してこれ實にヺルフ學派に於いて說かれたりし所)に比して遙かに高し。斯く彼れは希臘の美術的世界觀の上より考へたりしが故に其の道德上の善を言ふやまたこれを美的調和と相離さず。吾人の自然に具ふる諸性能の調和を以て吾人の德行の主眼となしたり。而して此の點よりして彼れが論はホッブスの利己說に對する新らしき方面よりする駁擊となれり。彼れは其の若年の時の著作 "Inquiry concerning Virtue and Merit" に於いてホッブスを駁して曰はく、若し吾人を見て孤立のものとせばホッブスの云ふ如く自己の幸福を來たすやうに其の性情の統御されたる者を呼んで善人と云ふを得むも個人を見て社會を組織する一員とする時はしか云ふを得ず。吾人は實際利己的性情を有するのみならずまた利他的性情をも具ふ、而して此の兩者が各〻其の