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たずして有効なるものと見たり、即ち彼れは吾人の道德を行ふべきは神の課する賞罰あるが爲めにあらずして吾人理性を具ふる者は理性によりて道德上の眞理を認め又そを實行すべき筈なりと見たるなり。然れども彼れはまた道德を實行することが吾人各〻に對して決して不利益なる結果を來たすべきものにあらずと考へ、而して道德上の義務と吾人各自の利益とが必然に相合することの證明を與ふることに於いては竟に神の與ふる賞罰を持ち來たることを避けざりき。

吾人が道德上發見する眞理の上に道德上の法則を置くことに於いてクラークの說く所に似たるはヲラストン(Wollaston 一六五九―一七二四)の說なり。彼れ一千七百二十二年に公にせる著述 "Religion of Nature delineated" に於いて說いて曰はく、行爲の正不正の標準は其の行爲が眞理を發表するか否かに在り、正當なる行爲とは其を爲すことに於いて眞理を肯定しそれを爲さざることに於いて眞理を否定するものの謂ひなり、換言すれば、德行は事物を其の眞に在る所に從うて取り扱ふものにして、不德の行爲は誤れる判定を爲し居るものなりと。彼れはまた道德を以て吾人各自の幸福と離れざるものと見、又吾人の取るべき快樂は眞正の快樂なら