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に贈るに擬したるもの)は哲學上の意見としては彼れが著書の中に於いて最も見るべきものなり。彼れ其の中に論じて曰はく、スピノーザの說を以ては運動の存在する所以を說明すること能はず、運動は廣がり及び障礙の性と共に等しく物質に本具せるものと見ざるべからず、動くといふことは物體の性にして吾人の五官に一物體の靜止するが如く見ゆるは反對の運動が相妨げ居れる狀態に外ならず、物體に差別の存するは其れを組織する部分が種々の運動を爲すがゆゑにして運動是れ即ち物體に於ける差別の基因なりと。斯くの如く運動を以て物體其の物に具はる性なりと見たれど、トーランドは決して造化主の存在を否まず、却つて物體を動くものとして造り且つ其の運動を支配するものなくては宇宙に整然たる秩序のある所以、殊に有機物の生じたる所以を解すべからずと考へたり。彼れが晚年の著書『パンテイスティコン』("Pantheisticon" 千七百二十年出版)に於いては其の謂ふ造化主即ち神をば天地萬物に在りて常に活動する大勢力と同一視し神と世界とは實際相離れて存在するものにあらず、唯だ吾人の思考上之れを區別し得るのみと說けり。而してかくの如き世界觀を有する者をパンテイスト(pantheist