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亦之れを出立點とせざるべからず、其の背後に分け入りて其れを超絕したる、而して其を起こす所以のものを其の外に求むること能はずと考へたるなり。

吾人が或一物を以て實在とするの思ひも廣き意味にていふ一種の感情(feeling)に外ならず、換言すれば、一印象の活きとして新鮮なる(liveliness)をいふに外ならず。されば一物を存在するものと見るは畢竟ずるに吾人の心に於ける印象の强さを云ふなり。印象の强さを有するものとして一物を思ふと其を存在するものとして思ふとは二つのことにあらず。即ち實在又は存在といふことの觀念も元來皆印象の强さを意味せるなり。之れを要するに印象として吾人の心に浮かべらるゝ是れ即ち其が實在するものとして知らるゝなり。

唯だ吾人の想像に思ひ浮かぶることと記憶することとの區別も其れに伴ふ感情的狀態の强さに外ならず、換言すれば記憶として思ひ浮かべたるものには其を事實と信ずる感情の伴ひ居りて唯だ想像として思ひ浮かべたるものには其れの伴はざる點に於いて相異なるのみ。而して信ずるといふは畢竟一觀念が强き感情を以て吾人の心に現はれ來たることを意味するなり。吾人の思ひ浮かぶるもの