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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/311

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源は印象に在らざるべからず、而して吾人の知識は其の觀念の印象に合ふほど事實を示す上に於いて確實にして、印象に合はざるほど不確實なりと。是れヒュームの心理說より自然に來たる所の知識論上の根本思想といふべきなり。

斯くヒュームは印象を以て吾人の知識上原始のものと爲したるが印象の窮極原因に就きては論ずることをせず、印象に對する對境ありて印象は其の對境より直接に來たるものなるか、はた吾人の心を以て生じ出だすものなるか、はた吾人を造りたる造化主ありて彼れより來たるものなるか、這般の問題は到底吾人の知識を以て決すること能はざるものと考へたり。ヒューム自らもことわれる如く印象といふ語は其が吾人の心に與へらるゝ仕方を表はす爲めのものにあらずして唯だ吾人の心に知覺したる其の物を指して謂ふなり、故に印象に對して其れとは別なる對境即ち外物と名づくるものありて其れが恰も印を紙上に捺するが如く吾人の心に其の形を印すといふ意味にて印象といふに非ず、唯だ吾人の知識の由來を考ふれば先づ最初に他の摸寫或は再現とは考ふべからざる新鮮なる狀態ありて之れを印象と名づくべく、而して知識の材料は凡べて之れに求むべく、吾人の硏究