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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/308

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於いても吾人は必ず感官上の形象を假るなりと。斯くてブラウンはロックの說を感覺論の方面に引き來たりて感官以上のものに就きては吾人は知識を有せずと說きたれどもなほ彼れは宗敎上の思想に拘束せられたる所ありて其の謂はゆる比喩的に考ふるといふことを以て、正當の意味にては知識といふを得ざれどもなほ吾人のそれに賴るべき價値あるものなりとせり。且つ彼れが吾人は我が心の作用に就きては觀念を有せざれど、なほ直接に其れを自覺することを得と云へるは其の說截然たらず。ヒュームもブラウンと同じくロックの立塲より出立して其の當さに到るべき所に進まむとしたるものなれどもブラウンとは別の方面より其の說を改めむとしたるなり。

《印象と想念。》〔三〕ブラウンはロックの謂はゆる二つの窓の一方を捨てむことを求め反省は觀念を以てする吾人の知識の淵源となるものならずと見たれども實は一方にそれを閉ぢ出だして他方に別異の名を以て(觀念を以てせざれども直接に之れを自覺すといふ名稱の下に)それを容れたり。ヒュームは觀念の種類としてロックの言ひし如く感覺より來たるものと反省より來たるものとを分かつ代はりに