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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/307

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引かむとしたる者あり、ピーター、ブラウン是れなり(Peter Brown 愛蘭人、コークの監督たり、一千七百三十五年に死す)。彼れ論じて曰はく、曾て感官に於いて無かりしものの知性に於いて存することなしといふ立塲より正當に考ふれば吾人の外官を以て得るところの外に觀念の淵源といふべきものなし、吾人の心は眞實白紙の如きものにして外界に關しても其の他の何物に關しても本來具有する觀念なし、觀念の來たるべき道は唯だ五官によりてする者あるのみ、其の他に反省によりて原始の觀念を得といふは誤れり。吾人の知識は觀念を以て形づくられ、而して其の知識には直覺的のもの、論證的のもの、或は他人の證言に應ずるもの等の種類はあれども畢竟ずるに其の由來する所は一として感覺にあらざるはなし。但し吾人の心の狀態を自覺することは爲し得れどもこは直接に其を自覺するにて觀念を以てするにはあらず、故に吾人の思想力に就きては明瞭なる觀念を有せず、吾が心の作用を自覺するは正當なる意味にて知識といふべきものにあらず。されば感官を以てするものの外(即ち感官以上のもの)に就きては吾人は毫も知識を有せず、其等に就きては吾人は唯だ比喩的に考ふるを得るのみ、此の故に神を考ふるに