Page:Onishihakushizenshu04.djvu/309

提供:Wikisource
このページは校正済みです

impressions)と狹義に謂ふ觀念ideas)とを揭げたり。彼れが謂はゆる印象は凡べての感覺又は感情等の始めて吾人の心に現はれたる狀態をいふ、例へば机に封して机を見る如き、二つの色を見て其の差別を認むる如き、また我が心に現實に悲痛悅樂を覺ゆる如き、是れ皆印象の部類に屬するなり。彼れが所謂觀念は印象の影像(image)即ち其の苒現したるものの謂ひ也。故に印象と觀念との區別は、前者は其の心の狀態の如何なるかに拘らず、他の影像即ち他の再現として現はれざる新鮮なる狀態を意味し、後者は如何なる心の狀態にても曾て經驗したる心狀態の摸寫として心に現はれ來たるものを意味するなり、例へば眼前に机を見るは印象なり、眼を閉ぢて再び其を思ひ出だすは觀念なり。ヒュームはロックがデカルトに從ひて觀念といふ語を以て廣く吾人の心の一切の狀態を意味するものとなせるを非とし、其を其の正當なる狹き意味に引き戾すを可としたり、故にヒュームの謂はゆる觀念は之れを想念とも名づけ得べきものなり。(觀念といふ語を廣義に用ゐれば觀念は印象と想念とに分かるといふも不可なし。)ヒュームの所謂印象はロックの語を以て云へば其の中に感覺よりする觀念と共にまた反省の方に屬する