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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/306

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したるはテューリンに在りし時なり。一千七百四十九年に故國蘇格蘭に歸り一千七百五十二年にはエディンボローの辯護士會に屬したる圖書舘の監督者となり廣く書籍を見る機會を得こゝに彼れが其の『論集』によりてよりも尙ほ其の名を弘めたる『英國史』を著はせり。彼れが此の著を爲すや從來史家の多く爲したるが如き唯だの戰爭史たるに止まらずして風俗、文學、美術等凡べて社會上の情態をも叙述せり。彼れはまた一千七百五十五年に "Natural History of Religion" を著はせり。一千七百六十三年ヘルトフォルド侯が平和條約締結の爲めにヹルサイユに使したる時彼れ其の書記官としてこれに隨行し巴里府に於いて大に學者社會の歡迎を受けルソーとも相識れり。一千七百六十七年より同六十八年に至るまで英國政府の外交事務係として其の職を奉じ其の後、生地エディンボローに返隱して閑散なる日月を送りしが久しく病みて後一千七百七十六年八月廿五日遂に瞑す。其の著 "Dialogues on Natural Religion" は彼れの死後一千七百七十九年に出版せられたり。

《ヒューム及びブラウンのロックに對する關係。》〔二〕ヒュームに先きだちてロック哲學の結論を感覺論(sensualism)の方面に