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ボローなる相應の資產ある家に生まれき。エディンボロー大學に遊び、早くより文筆を以て一世に名を擧げむことを熱望し、また早くより哲學的問題に其の心を用ゐて新思想を開かむと力めたるが如し。甞てヒポコンドリーを患へて少らく學問上の硏究を廢し、後しばらく實業界に入りたれども彼れは永く畢生の名譽を得むと欲したる學問より離るゝこと能はず、やがて佛蘭西に行き靜閑なるところに居を卜して止まること四年、其處にて彼れの大著『人間性情論』("Treatise on Human Nature: being an Attempt to introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects")の著作に從事し後倫敦に於いて其の第一卷及び二卷を一千七百三十九年に、其の第三卷を一千七百四十年に發兌せり、されど此の大著は當時世人の注意を惹かざりき。ヒューム自ら之れに就きて言へらく、「此の書は活版より死して生まれたるなり、迷信家の苦情を惹き起こす榮譽をすらも得ざりき」と。彼れは實際之れがために大に失望し更に其の名を揚げむと欲して一千七百四十一年に其の『論集』("Essays and Treatises on Several Subjects" )第一卷を著はしゝに頗る時人の注意を惹きたるを以て彼れは一千七百四十八年より同五十二年に至る間更に尙ほ論集の四卷を出版し、而