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バークレーとは獨立に其の立塲に到達したる者の如し。されど彼れが一千七百十三年に公にせる『大鍵』( "Clavis Universalis, or a New Inquiry after Truth, being a Demonstration of the Non-existence or Impossibility of an External World" )に說ける所は幾分バークレーの說に影響せられたる所あるが如く見ゆ。彼れ論じて曰はく、吾人が現に外物を觀て知覺する所も又吾人が曾て知覺したるものを想ひ起こすも畢竟其の間に强弱明不明の差等あるのみにて皆我が觀念に外ならず、吾人の視る世界が吾人の視るといふ心の作用を離れたる外界として存在すべき筈なし。吾人の視覺に現はれたる所是れ即ち吾人の心に於ける觀念たるに外ならず、吾人に見えたる世界の裏に別に見えず知られざる世界を置くは全く不用のことなり。吾人の心の外に物界を存在するものと見るは矛盾の見に陷るを免れず、故に諸哲學者の物界に就きて說を爲すや同一の物界が或者によりては空間及び時間に於いて無際限なるものとせられ他の者によりては際限あるものとせらる、又或者は物界に於ける凡べての物を以て無窮に分割せらるとなし、他の者は然らずとなす。畢竟ずるに觀念以外に物界の存在を說くは無用の事に屬す、唯だ神の心に於ける觀念として存在す