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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/299

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に從へば、神の直接に吾人に與ふる觀念、ライブニッツに從へば、各モナドの自ら念ずる所に外ならず、而して各モナドの獨立に自ら念ずる所の相合ふ所以を說明するにライブニッツは豫定の調和を以てしてオッカジオ論の趣を傅へたる點に於いてデカルト學派の二元論の脈を引きたるものといふべし。バークレーとライブニッツとは同じくデカルト學派の二元論の影響を受けながら前者は二元の一方なる物界を沒了して無限精神即ち神と有限なる吾人の精神との間には直接に影響を及ぼすことを得と考へ、後者はデカルト學派にて心と物とを共に本體と見而して其の間相互に影響する所以を解し得ずと考へたる所を受けて凡そ本體として存するものの間には他より影響を受くることのあるべきやうなしと思惟せるなり。デカルトに於いては神の觀念は恰も神が吾人の心に與へたる印象の如きものと認められ、バークレーに於いては天地萬物についての觀念は凡べて神に與へられたるものなりと認められき。

《バークレーの說とマルブランシの說との比較及びマルブランシとコリヤーとの比較。》〔一〇〕其の說の相類似せる點に於いてバークレーと比較すべきはライブニッツよりも寧ろマルブランシなり。此の二者を較ぶれば同じくデカルトの二元