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なり。かくバークレーは世に寶在するものは神といふ無限精神及び神に造られたる有限精神のみなりと見たり。故に彼れの論は或は唯心論と名づけらるれども、しかいふ意味は寧ろ精神論(spiritualism)と解釋すべきものなり。
《バークレーの精神論とライブニッツのモナド論との比較。》〔九〕實在するものは皆精神的のものなりと說くことに於いてはバークレーとライブニッツとは其の所見を同じうすといふも不可なし。されどライブニッツの所說は凡べて明らかに意識を具へ居るものをのみいふに非ず、故に精神作用と意識とを全く相合するものとして見る時は彼れの所謂モナドを形容して半ば精神的のものといふも不可なく而して之れに對すればバークレーの云ふ所は全く精神的のものなり。無意識なる精神なしと考へたるところ是れバークレーがデカルトの說を維持せる所にして之れに對してライブニッツ獨り新見地を開きたるなり。且つ又ライブニッツは其の謂はゆるモナドの活動を以て悉く自發の作用なりとなし、バークレーは自發の開展を說かざる點に於いて二者相異なれり。盖し本具し居るものの開發すといふ思想はデカルト學派に無き所、またバークレーに於いても見るべからざる所のものなり。吾人の觀る天地萬物はバークレー