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して視る天地萬物は是れ神が直接に吾人に思ひ浮かべしむるところの觀念に外ならず、而して斯くする神の活動におのづから規律あるところ是れ即ち吾人が自然界の法則と名づくるものなり。吾人が自然界の出來事を亂雜ならずとして信ずるは神の活動が理由なくして規律を亂すものにあらざるを信ずるがゆゑなり。されど十分の理由ある時に於いて神が其の活動を常規外に出でしむることあるは少しも怪訝すべきことにあらず、即ち奇蹟といふものは在り得べきものなり、何となれば自然界といふも神より離れたるものにあらずして畢竟神が直接に吾人の心に觀念を起こす其の活動に外ならざればなり。而して吾人の心に起こさるる其等觀念は本來神の心に存在する永遠の觀念なり。此のゆゑに假令我れ一人の心が其の存在を失ふとも世界は之れによりて其の存在を失ふに非ず、そは唯だ我れの觀念として思ひ浮かぶる世界の其の存在を失ふのみ他の者の觀念としては世界は依然として存するなり。又假令有限なる造られたる精神的のものが其の存在を失ふとも神即ち無限精神の觀念として世界は存在す。但し神をも無きものと考ふるに於いては其れ以外に如何なるものも存在する筈なきこと本より