Page:Onishihakushizenshu04.djvu/295

提供:Wikisource
このページは校正済みです

る心物二元の一方なる廣がれるものは遂に觀念を思ひ浮かぶるものなる他方のものの中に沒了せられたり。是れ即ちデカルトが重きを心自識即ち內觀的實驗に置き之れを出立點となしたることが其の二元說と相和し難くして遂に打破し去られたるものなり。

《心は知覺するものとして存在す。》〔七〕存在すとは唯だ知覺さるゝの謂ひなりとは是れ物體に就きての言にしてバークレーは心は知覺するものとして存在すと考へたり、即ち觀念のあると共に觀念する者ありと考へたり。此の點に於いては彼れはなほデカルトの思想を維持せるものといふべし。但だ彼れは心作用を說きて、そを專ら意志の作用となし靈魂は意志なりともいへり。曰はく、吾人の思ふところのものは即ち觀念にして思ふ作用は觀念にあらず、意志なり。意志もて活動するものの外に實在するものなし。故に一言にして言へば、唯だ精神的のもののみ活動的のものにして唯だ活動するもののみ實在するものなり。

《世に存在するは神てふ無限精神と神に造られたる有限精神とのみ。》〔八〕かくの如くバークレーは精神的のものの外に全く實在するものなしと論じ來たれども彼れは決して全く吾人の通常謂はゆる外界の存在を否めるには