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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/294

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レーに抛棄せられたり。バークレーが物體の存在を否めるは唯だロックの立塲よりせるのみならずまたデカルト學派の思想に由來せるなり。彼れ曰はく、吾人の觀念とは異なりて別に物體界ありといふは啻だ不用なるものを想像するものたるのみならず實に考ふべからざることなり、何となれば我が心の思ひとなるものは我が觀念以外に無きを以て吾人の物體を思ひ浮かぶるや其を觀念としてより外に思ひ浮かぶること能はず、然るに其の觀念によりて何故に觀念ならぬ物が思ひ浮かべらるゝか、人は觀念ならぬ物體ありて而してそを吾人の心に寫すといふ、然れども觀念ならぬものが何故に又如何にして觀念に寫さるゝを得るかと。是れデカルト學派の二元論に立ちて心物を相對せしめ而して結局物體界を否めるものなり。以爲へらく、物體の存在は其れが或心あるものに知覺さるゝといふことに外ならず(esse est percipi)、卽ち實に存在すと云はるゝものは精神及びそれに思ひ浮かべらるゝ觀念に外ならずと。彼れは此の論を以て唯物說を其の根柢より覆すの利器と考へたり。かくて物體の存在は知覺さるゝと云ふことと同一にして知覺することを以て其の性とする心の所造となり了せり、デカルトが揭げた