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に入りて學べり。彼れは夙に心を哲學の硏究に傾け意味なき諸多の空漠なる抽象的觀念を去り、直接に吾人の實驗し得ることに基づきて其が思想を運ばし、而して其の結果として知識と信仰との爭ひを徘除せむと心掛けたり。彼れは一千七百〇九年其の最初の著作にして心理及び知識の論に於いて一新見地を開きたる著書『視覺新論』("New Theory of Vision")を著はし、其の翌年には彼れが哲學上の大著『人知の原理』("Principles of Human Knowledge")を公にせり。其の後倫敦に來たりて某處の文學社會に交はり、其の學識、好尙及び其の性質の溫雅にして君子の風趣あるを以て大に交友の敬愛を受け、また其等當時の文士と交はりを訂せし所よりスティールの發兌し居たる雜誌『グアーデアン』("The Guardian")に投書せることあり、其の後ピーターボロー侯がシヽリーに使するに侍して往けり。千七百十三年對話體にものして文章美はしき『ハイラスとフィロノウスとの對話』("Three Dialogues between Hylas and Philonous" )を著はし、尙ほ後には歐洲大陸を旅行して巴里府に在りし時にはマルブランシに會して盛んに哲學上の論議を鬪はしたることもあり。一千七百二十四年には英國敎會に於ける一敎職を授けられたりしが後彼れは其の敎職に