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せり。然るに彼れが吾人の知識の起原を說く所に從へば、吾人の最初に知るところのものは個々の事柄に外ならず。故に彼れの說によれば實物に就きての吾人の知識を律し得る遍通の理としての因果律が何ゆゑに直覺的に吾人に明らかに認めらるゝかを解し難し。畢竟彼れの何心なく因果律を取り扱へる仕方は少しも他の唯理學派の論者と異なる所なし。

彼れはまた吾人の知識は觀念と觀念との關係を認むるものに外ならざるがゆゑに觀念其のものの外に出づること能はずといふことを屢〻明言しながら猶ほ吾人の知識の中實在物の有無を認むるものありとなせり。以爲へらく、我れの存在と云ひ、神の存在と云ひ、是れ唯だ吾人の心に在る觀念の存在をいふにあらずして觀念以外に本體としての存在をいふなり、また吾人の感官を以て(全く確實なりとは云ふことを得ざれども)外物の存在を知ることを得と。されど觀念と觀念との關係にのみ止まる知識が何ゆゑに觀念に對する實在物の上に及び得るか。ロックは觀念の合不合といふことの中に觀念と其れに對する實在物との關係をも籠めむとすれども是れ明らかに彼れの爲し得べからざることなり。彼れは物體の性