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れる所に外ならずしてそれらの觀念以外に其れに對應すべき實在物あるにあらずと說きたれども、本體といふ觀念に於いては其れに對應する實在物ありとなせり。されど彼れが知識の淵源を說く所より考ふれば件の本體といふ觀念は何處より來たるべきものなるかを認め難し、外官によりて來たるものにもあらねば、また外官によりて來たる觀念を結合せしめたる單純狀態及び雜合狀態の觀念にもあらず、又觀念相互の關係にもあらず、遂に本體として指す所のものの觀念の來たる所以を解し難し。是に於いてロックは本體と稱して指す其の物の何たるかは吾人の知識する所に非ずとして其の觀念の價値を蔑視し其のこれを言ふ口吻は大にデカルト及びスピノーザと異なりながらなほ其のものの存在を承認せり。こゝ亦ロックが猶ほデカルト學派の羈絆に繫がるゝ所と云はざるべからず。

ロックはまた關係の觀念の一種として因果といふ觀念を擧げ、而して關係と名づくるものは吾人の心にて觀念を比べたる上にのみ存在するものにして、實在物を示すものにあらずと云ひながら、此の關係の觀念を根據として神の實在を證せむとせり。且つ彼れは因果律を以て遍通の價値を有して直覺的に明瞭なるものと