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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/275

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に道理と信仰とを相對せしめていふ時は前者は吾人が其の理由を親しく我が經驗上に求むることを得るものにして後者は神の與ふる證言を以て確實なる根據とする點に於いて兩者は相異なりといふを得。このゆゑに宗敎上の信仰には吾人の理性を以て親しく發見し得ざるものあり、されど此等も決して全く信ずべき道理なきものにあらず、何となれば十分の理由ありて神の證言を確實なるものとすと云はば其れほどの道理は其處に存在すればなり。されど右爲せる如く道理と信仰とを區別して云へば後者を以て道理以上のものとなすを得。斯かる趣意に基づきてロックは中世紀の哲學者以來已に唱へ來たれる區別に從ひて合理、悖理及び超理の三種を別かち、宗敎上悖理なることは固より信ぜらるべからざれども超理の事はよく信ぜられ得るものなりと云へり。されば宗敎上ただ吾人の理性を以て定め得る所のものの外に天啓によりて示さるゝものあれど是れ畢竟前者を補充し、そを更に擴張せるものと見るを得、何となればそれが天啓なることの證據(即ちそれが眞實に神の示現なりといふことの證據)は終に吾人が理性の判斷に訴へざるべからざればなり。但し神の證言たる以上は其が吾人の信ずべきもの