コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/274

提供:Wikisource
このページは校正済みです

信念と名づけらる。吾人の信を來たすには多くの差等あり、而して吾人が其を信ずる根據は一つには吾人自らの經驗觀察にして二つには他人の證言なり。理性の作用は上來述べたる吾人の知識の成り立ちに從ひて一塲合に於いて吾人の知る所が全く確實なるものとして承認せらるべきか、はた唯だ或然のものとして承認せらるべきか、若し後者に屬するものなる時には其の或然の度即ち其れが如何ほどの根據を以て吾人に信ぜらるべきものなるかを見定むるに在り。而してこれを見定めむためには必ずしも論理學者の謂はゆる三段論法を用ゐるを要せず、吾人が實際推理の作用を爲す上に於いては三段論法といふが如き形式は寧ろ不用なるものなり。

幾多の或然的知識の中、個々の實際の事柄に關する知識は、畢竟ずるに吾人が親しく其等個々の事柄に接して得たる觀察を以て根據となすものにして他人の證言に依る時に於いても他人が亦親しく其を觀察したることに根據を有せざるべからず。而して吾人が直接に觀察實驗し得ざる事柄即ち宗敎上の信仰の如きに於いては其の根據は之れを神によりて與へられたる證言に措かざるべからず。故