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計のために陷れられてハルレを逐はるゝこととなり、四十八時間以內に國王の地を退去せずば笞刑に處せらるべしといふ條件の下に追放せられぬ。ヺルフは是れよりマルブルグに行き其處の大學に敎授となりて一千七百四十一年に至りしがフリードリヒ大王位に即きて後またハルレに召喚せられ、一千七百五十四年即ち其の死に至るまで其處の大學に在りて敎授に力めたり。
《ヺルフが哲學の組織。》〔二〕ヺルフが獨逸の哲學に致せる特殊なる功績の一は獨逸語を以て哲學を論ずることに力めたるに在り。當時に至るまで獨逸の學者が哲學を講ずるや槪ね拉丁語或は佛蘭西語を用ゐき、ライブニッツの如き亦爾かしたりき。然るに此の頃より次第に獨逸語の用ゐらるゝに至りしが、獨逸語をば哲學を叙述するに堪ふる國語と爲したることに於いてはヺルフが力の與れる所頗る多かりき。彼れが造りたる哲學上の用語が模範となりて後代の用法を定めたるもの少なからず。右の外ヺルフが功績の一に數ふべきは、彼れが(上にも旣に一言せる如く)哲學を組織立てゝ叙述せること、是れなり。彼れに從へば、哲學は凡そ可能なることの全體を攷究するものなり。其の立てたる組織に曰はく、吾人の心には知識の能力(facultas