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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/224

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れが學說を窺ふに肝要なる論文及び書翰等は廣く世人の見るを得るの便を缺きたり。彼れに次ぎて起こり其の哲學の主要なる思想を取りて其を組織的に論述し且つ廣く之れを當時の學問界に傳へたるはクリスチアン、ヺルフ(Christian Volff)の功績なり。ヺルフは一千六百七十九年を以てブレスラウに生まれ後イェーナ大學に入りて數學、物理學、哲學及び神學を修め特にデカルト及びライブニッツを硏究して大に得る所あり、又ツィルンハウゼンの書を讀み且つ後には其の著者とも相知りて其が思想の影響を受けたり。彼れが論述の組織的方面に於いて大に具はれる所あるはツィルンハウゼンが學術硏究法の論に得たる所ありしに因ると考へらる。彼れ後にハルレ大學に招かれて數學の敎授となりしが其の後、該大學にて哲學の講義を以て大に名聲を揚げたり。されどピエティスト派の宗敎家等は彼れが唱道したる唯理說を危險なるものとして彼れを徘斥せむとし其の說を曲解して、其の唱ふる所に從へば國王に屬する兵士の脫走することありとも敢て咎むること能はざる如きこととなるとの旨意を時の普漏士王フリードリヒ、ヰルヘルム第一世に吿げて彼れを陷れむと試みるに至れり。ヺルフは遂に此の詭