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(a priori)を加ふるを得、何となればモナドの最高のものに在りては其れの在り能ふことと其の實在することとが一なれば也、圓滿なるものに於いては其の在り能ふと云ふことは其の實在することと合一す。(是れ畢竟中世紀このかた用ゐ來たれる神即ち無限者てふ觀念より必然に神の存在を證明する論のアリストテレースが可能對現實論の彩色を帶びて其の形を變じたるものに外ならず。)凡べての物の窮極は神にして彼れはあらゆる眞理と盛德との淵源なり。神の光榮是れ萬物の向かひ進む目途にして而して其の光榮は世界の調和を現ずること及び生きとし生ける者の幸福なることと異別なるものに非ず。
然るに茲に問ふべきことのあるは斯くの如き目的を以て造られたる世界に何故に災禍の存在するかと云ふこと是れなり。ベールは曩に此の世界は善惡の二元を有すと見るかた事實にかなへりと云ひしが、ライブニッツは之れに對して、道理上より考ふるも此の世界は善良なるものにして前に所謂其が目的と決して相戾るものに非ざることを證せむと力めたり。彼れは先づあらゆる不善を三種類に別かち、一、哲理上より見る不善、二、物理上の不善、三、道德上の不善となして曰はく、