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のならぬことを知るべし。唯だ吾人が其等の理由を(換言すれば全體の目的)を發見し得ざる所あるのみ。語を換ふれば、敎會の敎義には吾人の理性以上のものありと云ふを得れども、之れに戾れるものありと云ふこと能はず。吾人の理性は限りあるものなり、吾人以上の理性を具ふるものより見ば吾人の解し得ざるものも一了解し得らるゝならむ。

《宗敎論つづき、樂天論。》〔一六〕以上は專ら敎會の敎義即ち天啓によりて敎ふるものに就きての論なり。ライブニッツ尙ほ曰はく、吾人が自然に具ふる理性を以て宗敎上吾人の知識し得る所のものあり、而して其等は凡べての宗敎に於ける神髓とも云ふべきものにして吾人の本具せるもの、唯だそを開發して明らかに認識するに至りて所謂自然神學の組織を成す。所謂自然神學の綱領は一には世界以上にその造化主なる神ありと云ふこと、二には吾人の靈魂は不死なりといふこと、是れなり。吾人が靈魂の不死なるは其のモナドなることによりて知らる。神の存在に就きては曩に揭げたる論證、即ち宇宙に於ける調和より推して其の原因として神の存在を知る論(a posteriori)の外に神の在り能ふと云ふことより其の實に在ることを證する論