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は是れ能動の地に在るものにして其のしかる所以を示さるゝは是れ所動の地に在るなり。所謂能動所動は直接に彼れが此れに影響を與ふるの謂ひに非ず、他に於ける狀態のしかる理由を開示するが故に之れを能動と云ふなり。さればライブニッツに取りてもデカルト及びスピノーザに於けるが如く、能動の地に在るは想念の明暸なる判然たるものにして所動の地に在るは想念の不明瞭なる漠然たるものなり。此の故に一團體に於ける他のモナドに比して想念することの特に明瞭なるもの即ち靈魂は其の團體に於ける主宰と名づくべきもの也。

ライブニッツは啻だ吾人の靈魂及び身體のみならず一切の生物は其の生まれ出づる前より已に存在し、其の死後にも尙ほ存在するものなることを證明するものとして、當時恰も生物學上唱へ出だされたる微小なる種子的動物の說を取りて曰はく、凡そ生物は本來かゝる種子(身體と靈魂とを倂せ具ふるもの)として存在するもの、其の生死は畢竟該種子の伸長し縮小するに外ならず。盖し生物も連續律に從うて大なるものより極めて小なるものに至るまで數限りなき段階を成す。一麈の微と雖も亦多くの生物によりて住せらるゝなりと。