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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/200

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動も亦然り、時間もまた均しく吾人の心の見樣に屬するものなり。

しかも斯く物體が廣がりて見え又空間に運動するものとして見ゆるは全く吾人の感官が吾人を欺くにはあらず、そは其れに相當する實在の相(即ちモナドの團結と各モナドの開發と)が在ればなり。デカルトは先きに物理上より見て宇宙に於ける運動の和(即ち全量)は常に同一にして增減すること無しと云へりしが、ライブニッツは以爲へらく、常に同一なるは運動ならで寧ろ運動として現はるゝ勢力なり、卽ち物理上勢力の全量が增減することなく保存せらるゝ也。(此の點是れ近世の物理學に謂ふ勢力保存論の旣に彼れによりて言ひ表はされたる者と見て可也。)物體に於ける一切の狀態は其を動かす勢力によりて生ずるものなるが故に物理上より見れば物體の諸現象は運動力を以て說明せざる可からず、換言すれば、在らゆる物理的現象は全く機械的に說明すべきもの也。されど自然界の諸物が都べて機械的關係を以て活動する所以の窮極的原因は何ぞやと尋ぬるに其の爾かするに宜しき目的を具へたること是れなり、即ち機械的に活動する物界全體の根據は其れの成就すべき目的に在りと云はざる可からず。(是れ上に謂へる principium