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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/199

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じくば其れが何故に二物として存在するかの理由なく、又已に二物として相分かれて其の存在を異にし居る以上は其が二つとなりて分かるゝ理由なかる可からず、換言すれば、其が相異なる二物として在るは其の爾かあることに各〻が其の特殊の理由を有すべきなれば、其は決して全く同一なるものに非ず。

《時間空間の主觀的說明及び機械觀と目的觀との調和。》〔八〕萬物は皆モナドを以て成る、而してモナドは廣袤を有するものにあらずして心靈的のものなり。物體と名づくるものも畢竟本體たるモナドの結合體に外ならず。然らば廣袤、言ひ換ふれば、空間は何故にあるか。曰はく、空間は吾人の觀る上に存して實在するものに非ず、即ち吾人の心の見樣に屬する主觀的のもの(entia mentalia)なり。譬へば吾人が銀河を視るや其を成す一々の星を認めずして之れを一面に廣がれるものとするは銀河其のものの然るにあらで吾人が視力の足らざるに因るが如く、吾人が感官的知覺の明らかならざるが故にモナドの結合體が漠然相合して一面に廣がれる如く見ゆるなり。故にモナドの結合體が廣がれるものとして感ぜらるゝ、即ち物體として見ゆるは現象(吾人の主觀に現はれたる樣)なり。空間が吾人の主觀に現はれたる現象なるが如く、空間に於いて起こる運